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- Monokaki -


スパゲッティ
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 辺りは暗い。
 そっと開いたまぶたの隙間からは、無地の天井がちらりと見える。あからさまに他人行儀な天井で、にこりともしない。他に何かの手がかりを得ようにも、不思議なことに、視界に移るのはその名も知らぬ天井のみだ。
 ややあって、初めて自分がひどくこんがらがった状況に居るということに気がついた。俺は見知らぬ部屋のベッドに、とても窮屈な姿勢で寝かされている。起き上がることはもちろん、寝返りを打つことすら難しい。何を焦っているのか、急に心臓がとく、とく、と速く鳴り始めた。まずい、呼吸をきちんと──呼吸?
 呼吸がままならないことに気がついたのはその直後だ。俺の口元に、テレビか映画でしか見たことのない、酸素マスクがひっついている。口の周りは、麻痺しているのか一切の感覚がない。ただ性懲りもない違和感だけが押し付けられている。口元だけではない。体中に、たくさんの無機質なチューブが巻きついて、俺に得体の知れない何かを与え続けている。
 ──そうか、分かったぞ、俺は今、なぜか、病院に居るんだ。ようやく納得する。嫌がる自分を、理性で強引に納得させた。早いところそれを認めておかなければ、さらに混乱した事態を招きそうだった。
 しかし俺には、今こうして病院の一室に縛り付けられている理由が思い当たらない。時限性の持病はひとつも無かったし、昨日までは大学の授業にも健康的に出席していた。どこかで事故に遭った記憶も──今のところは──無い。毎日、少々狭苦しいアパートで、絵理と一緒にささやかな共同生活を送っていたはずなんだ。
 絵理? ようやく大事な一ピースを探り当てた気がする。これは、今の俺にとって鍵となる重要なピースだ。暗闇の中での直感は当てになる。「絵理」というピースからひとつひとつ、掘り起こしていこう。

 

 絵理は一歳年下の彼女で、一緒に暮らし始めて三ヶ月になる。その前には、一年間の交際があった。知り合ったのは大学のサークルだ。最初に話しかけたのは俺で、その理由は至極単純、「カワイイから」だった。
 二ヶ月経つ頃には、いつの間にか俺と絵理は相当に深いところまで知り合う仲になっていた。もともとは外貌に惹かれたのかもしれないが、その頃になると俺は絵理の新たな魅力をいくつも見つけていた。機転の利く頭や、並々ならぬ料理の腕。しかし何より俺を惹きつけたのは、陳腐な言い方ではあるが、天性の優しさだった。
 逆に、絵理が俺のどこを認めてくれたのかは、正直言うと思い当たらない。男として不甲斐ないので、「俺なんかのどこに惚れたの?」とは訊けない。俺は堂々としてそこに立っていればいいのだと、何度も自分に言い聞かせた。「絵理、好きだ」とそう言って、心から顔を綻ばせる彼女を、ただ抱きしめてやればいいのだ。

 付き合って一年経った五月に、大学の近くの喫茶店で、俺は同棲を切り出すことにした。絵理はよく俺の家に泊まりに来ていたし、何日も滞在することもあった。だから説得に時間がかかるとは思わなかったが、二人で暮らせば生活も楽になるし、などと現実的なメリットもいくつか捻出しておいた。
 簡単に注文をしてから、絵理と話を始めた。ぽつぽつと、少し回りくどい語りになってしまったが、伝えるべきことは伝わったはずだ。彼女はお冷やにすら手をつけず、俺の話を真剣に聞いてくれた。余すところなく話を終え、俺が一息ついたところで、ようやく二人同時にのどを潤した。混んでいるせいか、注文の品はまだ来ない。ちらりと時計に目をやる。遅いな、と思った矢先、絵理がぽつりと口を開いた。
「……私、洋のことすごく好き」
 そこでいったん間を取る。
「だから、一緒に暮らしたいとも思う。……でも……なんて言えば良いのか分からないけど……まだ、難しいんじゃないかな……もしかしたら」
 絵理は言葉を濁した。驚いた。その状況について、どこから手をつけたらいいか分からなくなって、焦った。心臓が少し速くなった。まさか、絵理は俺のことをそこまで想っていない?
「そうかな? 俺は……いや、俺は、ここ最近でけっこう細かくシミュレーションしてみたけど、深刻な問題は見当たらなかったし、難しいってことは……無いと思うけど」
 もつれながら、話を返す。しかし切れ味が鈍っているのは瞭然だった。
「……その、一緒に住むことって、もっと自然なものなんじゃないかな……?」
 絵理が言う。俺は返す言葉を完全に失った。それでも何か言わなくてはならない。
「でも……」
「お待たせしました。ミートソースの方」
 唐突に、ウェイターが俺たちの会話を割った。何事も知らぬ風な手つきで、俺の目の前にスパゲッティミートソースを置き、絵理の前には和風きのこパスタを置く。彼女は不自然なほど呆気にとられてミートソースを見つめていたが、ウェイターが去ってしばらくすると、水を一杯飲んでさらりと、同棲を承諾した。
「そうだね。洋が大丈夫って言うんだから、大丈夫なのかも。やってみなくちゃ始まらないよ」
 何とも言えない余韻の残る話し合いだったが、結果的には成功だ。内心ほっとした。大好きなスパゲッティミートソースが、妙に塩辛く感じられた。

 そんな話し合いから始まった二人の共同生活だったが、船出してみれば、いともたやすく順風満帆の海路に乗った。昼も夜も、俺は絵理とのやりとりを心から楽しんだ。何から何まで一致したわけじゃないけど、そのほうがトータルで楽しい。学部が違うから昼間は会えないけど、一日中べったりより適度な間を置いて触れあったほうが、嬉しい。俺と絵理は、飾らない素朴な関係をこつこつと築いていったのだった。

 

 その飾らない二人の関係は、さてどうなったのか? それから三ヶ月後の現在、記憶はこの病室へ向かう半ばでぱったりと途絶えている。温かい回想から、急ぐような呼吸音だけが響く病室に一足飛びに引き戻され、俺は震えた。説明のできない孤独に怯えた。絵理、絵理は、絵理はどこに居るんだ?
 内側から悲惨な何かが込み上げてくるのが分かった。嘔吐のときのそれに似ているが、少し違う。全身に戦慄が走り、汗がじわりと体表と衣服の隙間を埋め尽くしていく。絵理、絵理! 頭がぎらぎらに混乱し、両足の指が何かにすがりたい一心で暴れる。ああもうこの際、絵理でなくてもいい、誰か来てくれ! 暗い虚空に俺の意識がこだましてはかき消える。助けてくれ!
 目を覚ました時よりも、病室全体が不機嫌になっている気がする。無地の天井はいら立って俺を圧迫し、チューブのそれぞれはきつく絡みつくようだ。弾力のあるはずのベッドはさながら固いコンクリートでできた──そうだな、棺桶か。ふざけた比喩だが、真っ先に思い浮かんだものは仕方がない。そして体中の麻痺した痛覚が、それでも「痛い」とのたうちまわっている。
 同様に麻痺した記憶をもう一度叩き起こす。昨日、何があったんだ? 何でもいい、どんなことでもいいから思い出せ! 俺は何時に起きた? 何を食べた? 授業はあったか? 絵理は何をしていた? 何か面白いことはあったか? 逆に、何かつらいことはあったか──何か、「ひどく」つらいことは、あったか?
 見つけてはならない道を見つけた気がした。混沌とした現状から真相を引きずり出すための緒が、目の前にぶら下がっている。後戻りできないと予感しつつも、俺はもう一度その言葉をなぞった。
(──ひ、ど、く、つ、ら、い、こ、と)
 心の中で呟き終わるやいなや、俺の内側から込み上げてくる悲惨なものの正体が明らかになった。それは記憶の断片だ。必死にこらえていたのだ。正体が分かってしまうと、それはのど元ではなく、俺の両眼に向かって、容赦なく一気にせり上がってくる。ぜー、はあ、と誰かの呼吸音が聞こえる──ああ、俺のか。「ひどくつらい」記憶は、俺の両眼からマグマとなってだらだらとこぼれ始め、俺をぐちゃぐちゃに溶かし始める。

 

「洋? おかえり」
「あれ、今日メシ作っててくれたの? わ、味噌汁うまそう」
「けっこう作っちゃった。今まで一人で作ってたから、まだ加減わかんなくていっぱいになっちゃう」
 そう言って絵理は笑う。つられて俺も笑う。
「でも、珍しいね。俺が遅いときはいつも買うか外食かなのに」
「たまには良いと思って。わりと自信あるよ、今日は」
「お? そんなこと言うと、期待するからな」
 そう言って、俺の意識はだらしなくにやける。
 重たい私服を着替え、顔を洗う。鏡に向かって、にかっと笑顔を作ってみる。歯並びが良い。一日を終えた後にしては、疲れも無いすがすがしい顔だ。
「さあて、絵理の手料理、絵理の手料理……」
 そう言って俺は、洗面所を離れた。

 

 その後だ。その後の記憶が一切ない。いや、思い出せば思い出せる気もするが、敢えて近づきたくない。かろうじて、「料理に口をつけた」ことまでは思い出せる。だが、そこまでだ。味がおかしいとか、絵理の張り付いたような笑顔だとか、とにかくそれ以上はとても近寄れない。正視し難い記憶だ。巨大な光源が俺を妨げている。近づけない。涙はあふれ続けている。呼吸は、ぜー、はあ、といっそう荒い。
 がたり。
 病室のドアが開いた。絵理!? いや、違う、見知らぬ看護師だ。しかし向こうは俺についてよく知っている様子で、顔を覗き込んでは驚きの表情を浮かべる。「大丈夫ですからね」と一言、急いだ様子で俺の視界から消え失せた。
 いったい何が大丈夫なのか。ぜー、はあ。看護師のお姉さんよ、俺はどう大丈夫なんだい。ぜー、はあ、ぜー。涙が止まらない。マグマとなって俺をぐつぐつと蝕んでゆく。ぜー、はあ。熱い、溶けそうだ。ぜー、はあ。そうだ、そういえば俺がこうなって何日経つのかも分からないじゃないか。てっきりつい昨日のことかと、ぜー、はあ、思っていたが、場合によっては、ぜー、何日も、いや何ヶ月も前のことだったかもしれないじゃないか。ぜー、はあ。絵理、絵理! お前は、ぜー、はあ、俺を、ぜー、どうしたかったんだ。一緒に暮らそうと話し合った五月に、喫茶店で食べたミートソースが脳裏をよぎる。ぜー、はあ。絵理? 俺は今、病院でおびただしい本数の透明なスパゲッティに絡まっている。これからお前の味付けで、見事にどろどろな熱いソースになるところだよ。ぜー、はあ、ぜー、はあ。
 あまりの熱さに、思わず目を閉じる。病室の真っ白な、よそよそしい天井が目に浮かぶ。ああ、あれは、幾度も幾度もスパゲッティミートソースを乗せられて、そろそろうんざりしている「皿」なんだ。絵理との思い出がまぶたの裏を駆け巡るが、そのどれも、ただ気の利かないスパイスとなるだけだった。

 俺の最後の意識が、そろそろ休みたいと言う。その前にひとつ良いか、と俺は意識に語りかける。意識は、なら少しだけ、と俺を促す。
 ぜー、はあ。俺が「スパゲッティミートソース」、病室が真っ白な「皿」、そして、絵理が──「コック」なら、果たしてだ、いったいこの料理は「誰」に供給されるのだろうな?
 ぜー、ぜー、はあ。
 誰のものとも知れない呼吸音がのどの奥を通り抜けた瞬間、俺はまぶたの奥で静かに眠りについた。料理自身が、誰に食べられるかを気にするなんて馬鹿げている。そんなことは「コック」だけが気にしていれば良いのだ。料理自身はただ不完全なものとして、誰かに供給されれば良い。料理の役割が完全なものになるのは、その誰かに食べられる時だ。
 ぜー、はあ、ぜー、はあ。

(了)

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