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- Monokaki -


香車
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 俺が"あいつ"のことをはっきり意識し始めたのは小学校五年の運動会からだ。
 しかし"あいつ"は、卓越した運動神経も、回転の速い脳みそも備えていなかった。友達も片手で数えられるくらい。つまり、凡人だった。
 運動会のあの日、全員が参加する学年別徒競争で、"あいつ"は自分の出番を待ちに待っていた。雷管の音が響くグラウンドで、体育座りしながら小刻みに揺れていた。武者震いを抑えきれないのか、"あいつ"は、自分の番が近付くにつれて何度も立ったり座ったりを繰り返した。先の走者がゴールインするたびに歓声をあげていた。興奮が最高潮に達したころ、ようやく出番が回ってきた。"あいつ"は大股でレーンに歩み出て行った。
 "あいつ"を含めた四人が、これからトラックを半周、全力で駆け抜ける。"あいつ"は第四レーン、最外の位置だった。この時すでに、周囲のざわめきなど耳に届いていなかったに違いない。"あいつ"は雷管のはじける合図をひたすら待っていた。その姿は、闘志の炎に燃え盛っていた。
 "あいつ"がタッと走り出したと同時に、レースは始まりの合図を告げた。俺は未だかつて、このときの"あいつ"ほどスタートダッシュを完璧にこなした者を見たことがない。スタートから僅か五メートルですでに大きくリードを広げていた。足がさほど速くないとは言っても、徒競争は、足の速さがほぼ同程度の者どうしで走るように走順を調整してある。このまま"あいつ"は一位でゴールするかに見えた。
 だがそうはならなかった。結果からいえば"あいつ"は四位、即ちビリだった。
 なぜなら、"あいつ"は律儀にも第四レーンを走り続けてしまったからだ。第一コーナーにさしかかろうという時も、"あいつ"は内へ寄らずに懸命に真っ直ぐを走った。俺は釘づけになった。そのまま"あいつ"は遥か外側からコーナーに突入した。内側を一人、二人と駆け抜けて行くのを横目に、"あいつ"は全力で遠回りした。とうとう三人目にも抜き去られ、完璧なスタートダッシュは水の泡となった。第二コーナー、"あいつ"はまだ内へ寄らない。一人目がゴールした。二人目も三人目もゴールした。その時四人目――"あいつ"は、今やっとラストの直線に差し掛かったところだった。
 だが、ゴールした後の"あいつ"は、清々しいほどの笑顔だった。
 その笑顔を見ているうち、ふと、何かに似ていることに気づいた。真っ直ぐ、真っ直ぐに、突き進むだけ――そうだ、香車だ。
 当時のクラスでは男子の間で将棋が流行っており、例に漏れず俺も熱中した。八種類ある駒のうち、俺が最も好きだったのは他でもない香車だった。
 香車は盤上の四隅から戦いを始める。動きは実に単純で、何かにぶつかるまでなら、いくらでも前に突き進める。ただし後じさりや迂回の類は一切できないという何とも不器用な奴だ。
 かと思えば一転、敵陣に斬り込めばたちまち成香となって猛威を奮う。一本槍は失うが、金将の器用さを身につけるのだ。クラスの大勢は派手な動きをする飛車や角を大事にしたが、俺は不器用だが突貫力のある香車に惚れこんでいた。
 "あいつ"の笑顔は香車に重なった。気づいた瞬間から、俺の中で"あいつ"は"香車"になった。

 

 俺は"香車"のことをそれとなく意識して見るようになった。授業中に"香車"が手を上げたら、指名されるように願った。指名されれば、誰が聞いても的外れな回答を、真顔で答える。俺はおもしろいと思った。それはクラスの他の奴らが"香車"の答えを笑うのとはわけが違う。知る限り、"香車"のおもしろさを見抜いた者は、俺と担任の百川先生だけだった。
 "香車"が誰かともめごとを起こしたら、俺はひたすら見守った。間に割って入って止めるなんて野暮な真似はしない。"香車"は自分の意見が正しいと思ったら、それを貫き通すような意地の塊だった。自分が悪いと思わなければ絶対に謝らない。結局は相手が折れるか、諦めるか、呆れるかして、終止符が打たれる。「自分本位で付き合いづらいやつ」というレッテルがあいつには貼られたようだが、俺は、「それもまた"香車"」と、何かを知ったふうな目で見守っていた。
 秋の席替えで、俺は"香車"の隣の席を勝ち取った。俺は積極的に"香車"と話をした。"香車"と話をするのは物凄く大変でエネルギーのいることだった。じきに俺は、相槌を適当に打つことでエネルギーを節約する方法を選んだ。しかしそれでも、"香車"の話は留まるところを知らなかった。
 "香車"は、絵を描くことに熱心だった。授業中はずっとノートの端に絵を描いていた。俺が横からのぞいても、恥じて隠すようなことは一切なかった。だから俺は"香車"がノートに描いた絵のほとんどをのぞくことができた。"香車"が鉛筆を走らせる先にあるのは、百川先生の禿げ頭でも、当時流行っていたアニメのキャラでもなく、いびつにして独創的、いわゆるファンタジックな情景だった。
 俺は訊いた。
「それ、何?」
「これ? これ、今朝の夢。見るんだ、こんなの。それを描いてるの」
 夢を描いていたのか。どうりで不思議な絵ばかり描く、と俺は合点がいった。
「今日の夢、どんなだった?」
「すごかったよ。そこはインドの宮殿で、なのになぜか大きいカタツムリがいてね、あ、それと王様がいるんだ。その王様が、カタツムリの餌だって言ってリンゴを持ってきたんだ。そしたらそのリンゴが急に真っ赤に光って、その場がワープ空間みたいになっちゃったんだ。で、気がついたら変な草原地帯みたいなところにいた。そこでお母さんがすっごい剣幕で怒ってて、『私が作った焼きうどん食べなさい!』だって。」
 "香車"の絵には、大きな宮殿や、王の手に握られるリンゴが描かれていた。突拍子もない夢の内容にはついていけなかったが、ノートに描かれた絵を楽しむことはできた。ただし、"香車"の絵は拙かった。筆圧は妙に強い癖に、消しゴムを何べんもかけているから黒鉛がにじんでいる。かと思えば、線をこれでもかというほど間違えているのに消しゴムが一切使われていない絵もあった。
 だが、一つだけどの絵にも共通していることがあった。それは、全ての絵が"香車"同様、豊かな生命力を顕在させていることだった。
 "香車"を語る上で欠かせないエピソードといえば、小学六年生のときの運動会だ。開催予定日に低気圧が寄ってきたため、あいにくの大雨で運動会は順延となった。だが、新たに運動会の日を任命されたその翌日も、大雨だった。再び順延が決定し、普段通りの授業が教室で行われようとしていたその時、なんと"香車"はずぶ濡れになりながらグラウンドに突っ立っていた。気づいた担任が急いで"香車"を説得に行ったが、"香車"は1時間以上その場を離れなかった。
 "香車"はひどい風邪を引いた。結局、運動会はその三日後、グラウンドの状態が回復したのを見て行われたが、"香車"は風邪で参加することができなかった。大暴れする"香車"を、母親がなんとか宥めたという話だ。さながら、"香車"の槍先を護る"歩兵"のように。

 

 中学校に入学しても、"香車"は真っ直ぐなままだった。残念なことに、俺と"香車"は1回も同じクラスになることはなかったが、それでも俺は"香車"を見ることをやめなかった。
 "香車"は真っ直ぐ、絵を描き続けていた。俺は何度も"香車"のクラスを訪問し、ノートに描かれた絵を見せてもらった。"香車"の絵はちっとも上手くなっていなかったが、生き生きとした鼓動だけは相変わらず感じられた。"香車"に影響されて俺もその日に見た夢を落書きするようになったが、どんなに描いても、俺の絵は脈を打たなかった。
 あの日のように、俺は訊いた。
「オマエの絵って、なんか生きてる感じがするんだよな。どうやって描いてるんだ?」
「生きてる感じ?」
「そう、生きてる感じ。オマエは分かんないかもしれないけど」
「思ったまま描いてるだけだよ?」
 実に"香車"らしい答えだった。手掛かりの一つも掴めず、俺は会話を打ち切った。
 中学三年の時、"香車"をめぐって事件が起きた。ただしそれを事件と呼ぶのは俺だけで、他の生徒たちにとっては日常もいいとこだっただろう。二年の時に同じクラスだった伊藤から聞いた話だ。
「オマエ、"ワタル"と仲良かったよな」
「"ワタル"?」
 話を聞けば"ワタル"とは"香車"のことであった。しかし"香車"の名前は"ワタル"ではない。
「どうして"ワタル"かって? ああ、うちのクラスの合唱コンクールの曲にさ、『冴えわたる〜』って歌うとこがあんだよ。あいつ、音痴なのにそこだけすげえ声張るんだよ。しかも注意されても直さないの。皆それでウケてさ、あいつのこと"ワタル"って呼ぶことにしたんだ」
 こんな些細なことは日常茶飯事だった。いじめとすら思わない。伊藤には悪意も善意も無かった。
 なのに想像以上に不快な話だった。俺の腹の底に、ねとついた澱のようなものが急に沈み込んでいった。俺はその澱をすくって舐めてみた。"香車"を馬鹿にする者は許さない、という味ではない。もっと、古い味だ。
 それからしばらく、俺の気持ちに澱はずっと溜まっていた。
 "香車"のクラスに行くと、誰かが必ずあいつを"ワタル"と呼ぶ。すると"ワタル"が反応する。そのやりとりを見るだけで俺に溜まる澱はぶわりと舞い上がって気持ちを攪乱した。
 描いた絵を見せてもらう。授業ごとに新作ができる。"香車"の夢には際限が無いのか。変わらず新鮮な落書きの数々は、あいつがどう呼ばれようと一向に頓着しないふうだった。
 "香車"を見る。それはつまり、どう呼ばれようと、こいつ自身の内面は何も変わっていないということじゃないか。俺が何に拘っているのか、自分でもよく分かっていないが、どうやらその拘りは少々馬鹿らしいものだということに気づいた。
 中学生活最後の合唱コンクールにおいて俺が覚えていることはたった一つしかない。それは感動のコーラスでも、絶妙なハーモニーでもなく、"香車"の「冴えわたる」歌声だった。音程を外していることはどうでもよかった。"香車"は「冴えわたる」という言葉がその曲のキモだと考え、たとえ誰にも認められずとも、その意見を曲げなかったのだ。
 全校生徒の塊の中で、俺は一人"香車"の真っ直ぐを受け止めた。心の澱はすっきり消えた。"香車"の歌声は誰の歌声よりも高く舞い上がり、いつまでも響き続けた。

 

 中学校を卒業し、俺と"香車"は別々の道を歩み始めた。"香車"は電車で通うやや離れた私立高校に、俺は自転車で通える市内の公立高校に入学した。
 生活から"香車"がすっぽりと抜け落ちてしまったことは、俺にとって予想以上の欠落だった。授業に打ち込む気にもなれず、我武者羅に絵を描き続ける"香車"の姿をぼんやりと思っていた。そうこうしているうちに俺は置いてけぼりを食い、授業には全くついていけなくなった。
 しかし、俺は"香車"の抜けた穴を部活に打ち込むことで埋め合わせた。中学時代はやる気の無い卓球部で毎日だれていたが、高校ではあえてフェンシング部に入部し練習に精を出した。フェンシングには経験者が少ないと見込んでの選択だ。"香車"から学んだ懸命さは、少なからず役に立った。こうして俺は気持ちの空転になんとか歯止めをかけた。
 高校時代、俺の人生からは完全に"香車"が消えていた。だが"香車"は消えていながらも、俺に強い作用をもたらしていた。俺の部活に対する真剣さは、"香車"に由来するものだったからだ。そうして俺は県大会でも、フルーレ部門のみではあるが、ベスト16に食い込めるぐらいの力を付けた。授業は相変わらず理解できず、放課後補習の常連となっていたが、武に重きを置いていた俺はさして気にしなかった。
 部活以外の生活もたいへん順調で、健康を損なうこともいじめを受けることも無く、平和な日々を過ごした。それどころか、夢だった彼女もできた。
 矢野慧は、最初はただのまじめな奴だと思っていた。授業中は物音一つ立てず、居るのか居ないのかわからないくらい。男子と話しているとこなんか滅多に見ることのない彼女が、俺と初めて話したのは、二年の夏休みだった。
 熱が出そうな夏季補習を終えた俺が一人で部室へ向かっていると、慧が学習室から出てきたところに鉢合わせた。
「まだ、二年だろ? 補習でもないのによく勉強する気になるな」
 この暑さで、脳の水分が半分ほど蒸発していたに違いない。そうでもなければ絶対にこんなことは言いっこない。いきなり、喋ったこともない相手から、これほど厭味ったらしい言葉が飛び出してきたら、誰だって不機嫌になる。俺は咄嗟にまずいと思って、視線を逸らして部室へ逃げようと思った。
「大学受けるんだよ。あたしのレベルじゃ、もう遅いくらいだよ」
 はっきりと、背中に返事をもらった。振り返ってみて、彼女の視線の強さに驚く。俺はしどろもどろになって、何を言ったかわからないけど、何か言って、とにかくその場を離れようと思って部室へ消えた。
 それから妙に慧との距離が近くなった。夏季補習が終わったら、学習室を窓越しにちらりと見てから部活に行った。慧の姿を認められる日もそうでない日もあった。認められる日には、慧の方で視線を上げて俺と目を合わせる日もあった。学習室は俺にとって異空間で、絶対に侵し得ない神聖な領域であり、先輩に混じって勤しむ慧を見ればなんとなく畏敬の念を抱くようになった。没頭している姿は、どことなく"香車"に重なって見えた。
 部活が終わるころ、ちょうど学習室から出てきた慧に会った。偶然か必然か知れない。
「この前はごめん」
 相手が何か言う前に、俺は謝った。
「頭ぼーっとしてて、夏季補習で」
 慧が笑った。
「あんまり頭の性能良さそうじゃないもんね」
 取りようによっては喧嘩を売っているようにも思える台詞だったが、顔が笑っていたので、少しも不愉快ではなかった。もともと頭のほうは諦めている。俺も笑った。
 種目は違えど、互いにその日のベストを尽くし切った俺と慧は何となく気持ちが投合し、一緒に帰った。そこで話した内容はもう覚えていない。
 それから部活がある日は、ほとんど慧とともに家路についた。慧と話すうちに、ひとつピンと来たことがある。慧もひたむきに大学受験を目指して努力しているが、"香車"の真っ直ぐさとはどうも類が違うということだった。
 夏が終わるころには、俺たちの関係は親密なものになっていた。どちらも都合があって忙しいが、休日には2人で出かけることも多くなった。慧は、「来年はたぶんそんなに出かけられないから今のうちに」というようなことを言っていた。
 さて、いざ高校三年生になってみると、確かに慧は目に見えて忙しくなった。授業後は予備校に通うようになった。一緒に帰ることもあまりなくなった。俺はというと進学する気など毛頭なかったし、ぎりぎりでいいから卒業できればいいと考えていた。
 部活を引退すると、再び生活に穴が空いた。心の足掛かりがふっと消えてしまったようで、慧との関係も徐々にぎくしゃくしだした。俺は打ち込むものを失い、慧はなおも高みを目指している。精一杯の励ましも、すればするほど密度の低いすかすかの言葉になる気がした。関係はまさに自然消滅と言ってもいいほどに薄れていった。急に"香車"に会いたくなった。あいつは今何をしているだろうか。まだ、ガキのようにキラキラした目でノートに落書きをしているんだろうか。
 ぬるっとした日差しの鬱陶しい夏のある日、俺は"香車"に会うため駅で待ち伏せをした。
 しかし"香車"には会えなかった。代わりに、"香車"と同じ高校に行った友人、市村に会えた。
「あれ? 何してんだよ、久しぶりだな。誰か待ってんのか?」
 市村は、中学時代よりもやや肥えていた。俺は、"香車"について訊いた。
 そして恐ろしい事実を知った。
「あいつ、学校やめたぞ。確か、母さんが交通事故で亡くなったんだよ。それで、ちょっと立て込んだみたいで、県外に引っ越したらしい。知らなかったか? まぁ無理ないか。他の学校に行ったヤツらのことなんか全然分かんないもんな。俺もお前がフェンシングやってるって最近知ったんだぞ。あれ、もう引退の時期か」
 話は半分から聞こえなかった。
 絶句した。寒くて震えが止まらなかった。
 どうして今まで"香車"を訪ねなかったのか。"香車"は何を思ったか。"香車"の輝きは、まさか失われてしまったのか。
 遅すぎた焦燥感が俺を突き動かそうとする。充実していたはずの高校生活が、ハリボテのように揺らいだ。
「お前、あいつと仲良かったもんな……」
 動揺する俺に気づいたのか、市村が言う。俺は声にならない声をようやく漏らして、顔を上げた。
「どこに引っ越したか……分からないかな」
「さぁ……俺もクラスが違ったから詳しくは、な」
 場所が分かれば"香車"を訪問するつもりだった。訪問して何をするのか、案があるわけではない。だが、俺は"香車"を見に行かなければならない、と思った。あいつは、強く、真っ直ぐで、純粋だ。今まであいつが折れたところは見たことがなかった。しかし、母親の不遇の死に直面して"香車"がまだ真っ直ぐでいられるだろうか。強くいられるだろうか。人の性を悟らずにいられるだろうか。
 俺は市村に礼と別れを告げると、自転車に跨ってゆっくりとその場を離れた。
 俺は、"香車"を忘れて呆けた毎日を送っていたことを悔いた。休日に慧と仲良く出かけて浮かれていた自分を殴りたいと思った。部活に疲れ眠りこけている自分に、"香車"の大事を耳元で怒鳴って聞かせたいと思った。赤点補習に嫌々出席し、ペンを重たそうに握る自分を、"香車"の所へ引き擦ってでも連れて行きたいと思った。会ったからと言って"香車"の母親の運命が変わるわけもない。だが、それでも。

 

 就職の道を選んだ俺は、翌年より隣の市に通勤することとなった。慧は第一志望の大学には届かなかったようだが、それでも東京の私大に入学が決まった。全てが終わってみれば、当時感じた気持ちの隔たりも少しは薄まったようだ。
 大学に行った慧のその後は分からない。今まで俺の周りにたくさんいたはずの同級生たちも、知らないうちにどこかへ消えてしまっていた。狭い教室に四十人がぎゅうぎゅうに押し込められ、毎日顔を合せていたことすら嘘のように思えてくる。今どこで何をしているかを知っている者を指折り数えても、両手の指だけで足りてしまった。
 "香車"の喪失から月日は経った。苦しみもがいた時期も終わった。それでも市村と会ったあの日が消え去ったわけではない。高校生活で感じた穴とは違う、ささくれのような引っかかりが心にずっと残っていた。
 鞄を引っ提げてバスを降り、空気の悪い街をとぼとぼ歩く。見上げる都市を忌々しいとは思わない。それは"香車"によればきっと些細なお飾りに過ぎず、悪態を吐くのも馬鹿げていたからだ。
 ひとつの恋を始まりから終わりまで成し遂げた俺は、良くも悪くも擦れて大人になった。人生は、子供のころ思っていたよりずっと多くの要素が集まって出来ていることを知った。同時に、誰もかれも生粋の白でないことを知った。
 思えば昔から、俺は純粋な善、純粋な無知に強く惹かれる傾向があったのかもしれない。まっさらの画用紙を見て、色を塗るのは勿体ないと思う気質だった。そうだからこそ、今の今まで"香車"を見続けてきたのだ。
 ぐるりとあたりを見回してみても、まっさらな画用紙などどこにもない。
 普段通りの一日を繰り返していたら、俺はいつの間にか二十歳になっていた。

 

 一月十五日、軟らかい寒さがむしろ心地よい。成人の式典は予定通り行われた。
 久々に会った同窓の面々は、何も変わっていないようだった。もちろんそれは外面だけで、心の奥を紐解けば、俺と同じようにたくさんの色が塗り重ねてあるだろう。意識、無意識の差はあれど、昔ほど心を剥き出しにできなくなっているに違いない。
 しかし一縷の望みはあった。託されたのは言うまでもなく"香車"だ。成人を迎えてなお、無知の無垢でいられる可能性を秘めているのは、"香車"だけだ。しかし当の"香車"の画用紙にも、黒い絵の具は容赦なく降りかかったのだ。望みは絶たれるかもしれない。俺は恐る恐る、会場に"香車"を探した。
 "香車"を見かけた者は居なかった。つまり"香車"は居なかった。同窓会の幹事を務める、羽田という男に訊いてみた。
「ああ、ちゃんと送ったよ」
 羽田の答えは明快だった。"香車"の引越先を調べ、抜かりなく通知を送っていたのだ。
「それに、出欠の返事もあった。電話でね」
 俺は驚いた。"香車"は自分の意志で、今ここに居ないということになる。
 嫌な予感がした。運動会をはじめ、イベント事があれほど好きだった"香車"が、どうして成人式を拒んだのか。一瞬の躊躇の後、俺は羽田に訊いた。
「あいつ、『絵の勉強がカキョウなんだ』って言ってたよ。変に意気込んでてさ、一気にしゃべくるもんだから、俺が『わかった、わかった』って宥めてね。成人式くらい来てもいいだろうに、って思ったけどね。でも、『次も誘ってね』って念押してたから、来たくなかったわけじゃないんだろうけど」
 そう言って羽田は苦笑し、向こうへ行った。
 残された言葉の意味を噛みしめるうち、むずがゆいような嬉しさが湧き出してきた。そうか、"香車"は絵の道を選んだか。あの拙い絵を、今も描き続けているのか。それとも少しは上手くなって、夢の世界を奇麗に映し出せるようになったか。
 "香車"が絵を描く姿を夢想するうち、俺を覆う不安の曇り空はカラリと晴れ、そして確信した。

 "香車"は、まだ"成っていない"。

 将棋における香車の進みは実に単純だ。前に向かって、運動会での"あいつ"のように、突っ走るだけ。
 "香車"は走った。先を護る"歩兵"が悲運に倒れようと、懸命に走り、いつしかその死を乗り越えた。"盤上"の端っこで繰り広げられたドラマに、俺は今更ながら、思いを馳せた。
 齢にして二十歳、もっと器用に生きる方法を覚える頃だろう。"成香"になっても良いですよ、と誰かから声をかけられたはずだ。それを"香車"は斬って捨てた。"成香"のしたたかさよりも、"香車"の気焔を選んだ。前を見据えて思ったに違いない、「まだまだ突っ走れる」と。
 では敵陣に不成の覚悟で突入した香車を待ち受ける運命とは。指折り数えれば、たった三つしかない。
 行き止まりにぶち当たって成らざるを得なくなるか。
 大勢の敵兵に囲まれて死を待つか。
 それとも、玉の首を奪ってみせるか。
 ならば奪ってみせよ、"香車"よ。そして俺に"玉将"の首を突きつけてよく見せてくれ。何物にも汚されない真っ直ぐな士、"香車"よ。あるいは、"盤面"という絶対的な世界を飛び出して、どこまでも真っ直ぐに突き抜ければ良い。

(了)

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