- Monokaki -


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 もしもである。

 この世の全てのものが鉄で出来ていたらどうなるであろうか。全てのものが硬く、重く、磁石にくっつき、金属音を立てて、さぞ不快であろう。 そう思えばこそ、この世の全てのものが鉄で出来ていてほしいと思うのである。きっといつか、神が私の願いを聞き届けてくれるに違いない、などと 淡い期待を抱いているのである。

 申し訳ないのだが、ここから私は鉄になったつもりで筆を進める。これは私の願望が実現されることを期待する上で非常に重要な意味を持つ行為である 。願望が実現されるまでには多くのプロセスが必要である。まず第一に、願望を抱く事が必要である。当然ながら、願望を抱かない者が願望を実現できる はずはない。説明は要らないだろう。次に、願望を自分の中で確立させる事が必要である。この行為を第一のプロセスと同じものとみなす者も いるようだが、私は厳密には異なったものであると考える。願望を抱いた後、その願望が色褪せてかすれてしまう前に、 自分で何度も色を塗り重ねていかなければ、願望の実現には一歩も近付く事は出来ない。具体的には、毎日願望の内容を口に出して再確認する、 夜寝る前に願望の実現を祈る、他人に自分の願望を伝える、などなど、自己暗示的な手段をもって行う。私が鉄になったつもりになると言ったのは、 以上のような理由による。これによって願望が確立したならば、次に、願望の実現に向けて自分のできる事を考え、実際に行動する事である。 これは第二のプロセスと平行して行うのがよい。なぜなら、このプロセス自体に願望を色褪せさせる力があるからである。 実際に願望の実現に向けて行動すると、今の自分の立ち位置から願望までの距離が次第にはっきりしてくる。その距離によっては、 願望実現が不可能であると早合点する者も多くいるのである。それはいけない。そうしてしまうと願望が色褪せるスピードが一気に加速する。 そのスピードを少しでも抑えるために、第二のプロセスを平行して実行するべきなのである。第三のプロセスは長く険しい。 しかし今の自分の立ち位置と願望の距離が遠いという場合でも、努力を怠ってはいけない。 距離は変わらずとも、その距離を駆け抜ける自分のスピードが変化する事が少なくないからである。とにかく自分の力を信じて行動すべきである。 そして最後は、願望が実現された時に自分が満足感を得る事である。このプロセスにおいて意外と多くの者が失敗している。これは月を眺めることに 似ている。地球上から眺めれば明るく輝く神々しい月であるのに、いざ月に降り立ってみればそこはおびただしい数のクレーターが広がる荒涼とした 平野である。悲しいかな、それは避けようのない、ほとんど試練といっても過言ではないものなのである。このプロセスで失敗しないためにも、自分の 抱いた願望が実現する価値があるかどうか、よく考えなければならない。

 以上のプロセスに沿って、私はこの世のすべてのものが鉄で出来ていてほしいという願望の実現に向けて努力している。 具体的に説明しよう。ある雨の日、私は、古い自転車が錆びているのを見て「この世の全てのものが錆びたらおもしろいだろうなぁ」と、ふと思った。 これが第一のプロセスである。最初、願望は願望の形をとっていない場合がある。私の場合もまさにそうだった。そして、私は雨の日が来るたびに 全く同じことを考えた。それは次第に「おもしろそう」という思い付きから「見てみたい」という願望へと形を変えていった。おりしもそのときは6月で、 1週間ほとんどしとしとと雨が降り続いていた時期であった。私の心の中に、「鉄の世界」が順調に根付いていったのである。 これが第二のプロセスである。そしてついに私は願望実現へと向けて動き出した。まずは自分の身の回りからである。鉄ではないものは捨てていった。 しかしそれでは生活がままならなくなるので、鉄製のものに買い換えられる場合は、買い換えた。こうして私の家はだいぶ鉄のものが多くなった。 私は自分自身を鉄にする方法も考えてみたが、それは思いつかなかった。こうして地道な作業を続けていった結果、私は自分の立ち位置と願望の 距離が圧倒的に離れている事に気づいた。あまりにも離れていたので私はこの願望を捨ててしまおうかと、一度は思った。それでも私は踏みとどまった。 そして自分を追い詰め、後戻りを許さないようにするために、隣の家に火を放った。これは木造建築である隣家を世界から追放し、鉄の世界へと近付く ためのプロセスである。しかし思わぬ弊害が生じた。隣家の住人はそのとき2階で寝ていたので炎に飲まれてしまったらしい。 その時間帯隣人はいつも働きに出ていたはずだ。私は空っぽの家だと思って放火したのである。私は殺人者になってしまった。 しかしここで私は一筋の光明を得た。そう、焼けば、金属以外のものはどんどん炭と化す。私は願望実現への大きな手がかりを見出したのだ。 私は走り出した。自分の家をはじめ、町内中の家という家を燃やしていった。家だけではない、山も、森も、次々と燃やしていった。 国中が震撼した。私はこの国を導く人間になったのだ。この調子で走り続ければ、きっといつか鉄の世界へと私はたどり着くだろう。

 ある日私は目覚めると、自分の体がひどく重たい事に気が付いた。熱もあるようだったので、風邪かと考えた。体を起こすと全身が ぎしぎしと音を立てた。非常に不快だったが、とにかく何か食べようと思い、キッチンへ向かった。鉄ではないので、冷蔵庫は捨ててしまった。 だから私はいつも乾燥食品をお湯で戻して食べていた。今日ももちろんそうしようと乾燥食品を取り出すと、妙に重たい事に気が付いた。 何か余計なものが入っているのかと思い、袋を開けようとしたが、開かない。硬くて開かないのだ。袋が硬いとは何事かと不審に思っていたが、 そのとき気づいた。周囲を見渡した。そうだ。全てが鉄になっているのだ。私は驚いた。よく確かめると自分の体も鉄のようである。 硬いし、重い。見た目は普通なのだが、感触は鉄である。関節も動く事は動くが、妙な音が鳴る。神が、私の願いを聞き届けてくれたのか? それにしてはどうも不快な世界である。私は家から出る事にした。世界の外観は全く普通であった。しかし歩いてみれば分かる、全てが鉄だ。 木々も、犬も、猫も。車もタイヤが鉄のために耳に悪い音を立てて走っている。鳥たちは空を飛んでいない。そんな異様な町を私は歩き回った。 そしてふと気づいた。そうだ、私が見たいのは錆びた世界だ。雨が降ればきっと見られるだろう。そのときは私自身も錆びてしまうかもしれないので 傘を持ち歩く事にした。私は雨を待った。残念ながらその日は降らなかったが、次の日は朝からどんよりとした天気であり、今にも雨が降り出しそう だった。私は散歩に出かけた。出会う人もみな傘を持っている。私はその日も雨を待った。そしてついに雨が降ってきたのは、その日の午後2時ごろ であった。

 私は異常に気が付いた。雨が降ってきたは良いが、水は降ってきていない。雨が鉄だ。バラバラと鉄の粒が降ってきている。そんなバカな。 これでは誰も錆びない。酸化しない。金属音を立てて地面にぶちあたる鉄の粒を見つめながら私は愕然としていた。私の体にも鉄の粒はあたり、 ところどころがへこんでいった。私は気がつくと涙を流していた。もちろん、鉄であった。願望が違ったのだ。そう、「全てが鉄の世界」では 鉄が錆びる事はない。鉄は酸素に触れて初めて錆びるのである。しかし、今やこの世界の全てが鉄である。Fe原子なのである。私は後戻りできなかった。 どうやってこの世界を元に戻せばいいのか、全く見当が付かなかった。神は二度と呼びかけに応じてくれなかった。私はこうして鉄の世界へと やってきてしまった。私に死はあるのだろうか。それだけが切実な疑問となって残っていた。

(了)

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