- Monokaki -


秘密の言葉
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 オレンジ・バレンシア大戦から三ヶ月後──────

 バス地方の決戦で武勲を立てたボイラー大尉は、大戦で負傷した右足の治療のため隔日でリウマチ中央総合病院に通っていた。 国に平和が訪れてからまだたったの三ヶ月しか経っていないのに、人々の顔からは恐怖がすっかり消え去っている。台風一過の晴れ模様 のようだった。人々の笑い声を聞くたびに、ボイラー大尉は心の底から幸せだと感じられた。昼間の病院の待合室には、自分と同じような 大戦負傷者がちらほら、それに感冒で学校を休んだ子供、病院に来るのが日課になっているような老人が居た。日差しは柔らかく、 時はゆっくり流れているようだった。ボイラー大尉は二人のおばあさんの会話に耳を傾けた。

 「あらまあ、久しぶりですねぇ、アラザンさん」

 「あらあら、グラニューさんじゃないの。最近どうです?足の御調子」

 「なんていったかしら、シーチキン、とかいうお薬がすごくいいんですよ」

 「そのお薬、あたしももらってますよ。なんだかあったかくて血行がよくなってくるみたいで、良いですよね」

 「そうそう。ですよね」

 何気ない会話を聞きながらボイラー大尉は大戦のことについて考えていた。あの日、バス地方の決戦の火蓋が切られた時、 自分は何を考えていただろうか。今となっては全て夢のようだ。あの時はバス地方スチームの丘を守る任務で精一杯だった。 この任務は絶対に成功させなければならない。それだけを考えていたような気もする。まるで自分自身が任務になってしまったかのような 不思議な錯覚さえ覚えた。アイロン少尉はあの決戦で命を落とした。気さくでものわかりのいい、頭の良い人間だった。 それでも自分は任務を続行した。犠牲は付き物だと信じていたのだ。今振り返ってみれば、自分がどれほど鬼のような人間だったかが 明らかだ。デスクも、ギターも、カラン中尉ももう戻って来ない。みな自分の目の前、本当に手が届くくらい目の前で死んだ 人間だ。みな有能だった。なのに、自分だけが生き残ってしまった。ボイラー大尉は両手で顔を覆った。大戦後、こうして何度も決戦を 振り返り、そして悲しみに沈むのだった。

 「そうそう、聞きました?カノンがタイガーですってよ?」

 「へぇ、そうなんですか?今知りましたわ。ありがとうございます。では私はナナフシということね?」

 「えぇ」

 二人の老婆の会話はまだ続いていた。ボイラー大尉は自分の心の中の声に夢中になっていたため、最初は気がつかなかった。

 「アラザンさんはじゃぁオムレット?」

 「あたしはアルミホイルよ」

 ふと、ボイラー大尉は老婆らの会話の不自然さに気がついた。ボイラー大尉は会話に現れた人間も地名も知っていない。 しかし、聞いたことはあるのだ。それも、バス地方の決戦の最中で。彼は注意して会話を聞いた。

 「アルミホイル……。ついにですねぇ」

 「えぇ。アルミホイルならおよそ……三十キロメートル四方ってところかしらねぇ」

 ボイラー大尉の体を戦慄が駆け抜けた。外耳から耳の中に侵入したそれは、ボイラー大尉の全身を駆け巡り、靴底を貫通して 病院中に広がってしまったかもしれない。もしかしたら、奴らにも気づかれてしまったかもしれない。冷や汗が一滴。ボイラー大尉は すべての悲しみを心の底にぎゅうと押し込んだ。まだだ。まだ戦いは終わっていない。奴ら、この二人のババアは敵国のスパイだ。それも、 一流の。おそらく、敵戦線と長く前線で戦った自分でなければそれがわからなかっただろう。ボイラー大尉は決戦の最中、敵の通信を偶然 傍受したことがあった。そのとき使われた言葉が「タイガー」「オムレット」「アルミホイル」であった。ごく自然な響きで、まるでどこかの見知らぬ 街の名前か、人名のように思われるそれらの言葉は、実のところ敵国が作戦を伝える際に使う軍事的な機密用語だったのだ。 そして決戦のとき、「アルミホイル」の後に行われた敵国の作戦は、イーグル爆弾の大量投下だったのだ。今、目の前でババア二人がした会話には 知らない言葉も混じっているが、アルミホイルが確かなら、そして三十キロメートル四方という言葉が確かなら、この国は危ない。

 「それにしても、なんだか、ずいぶんフリースな気がしません?」

 「えぇ、そうねぇ言われてみれば……フリースだわねぇ」

 ババアらの会話はまだ続いている。ボイラー大尉は今すぐこれを本部に伝えるべきかどうか迷った。もしこれが誤認だったら? だが遅れを とれば、この平和は崩壊し、再び地獄のような日々がやってくる。いや、悪ければ国が滅亡するのだ。ボイラー大尉は心の中でうなった。 今や国の全運命が彼の背中にのしかかっている。憎むべきババアどもはにこやかな笑顔でのんびりと、この国を滅ぼそうとしている。 ボイラー大尉は拳を固くした。

 「じゃぁ、メリケンはどうかしら?」

 「キョンシーもあるわよ」

 「それもあるわね。でもそれならチゲのほうがいいんじゃない?」

 「チゲねぇ……。じゃあ、チゲにしましょう」

 意見を交し合って、この国をどう滅ぼそうか検討しているのか。この公共の場で。ボイラー大尉は怒りに支配されかけたが、なんとか持ちこたえ、 冷静を保った。そしてトイレに行くふりを装って、病院を脱出し、本部へ急いだ。公共機関はよく遅れるので駄目だ。少々高くつくが任意輸送車を使おう。 ボイラー大尉は任意輸送車を一台呼びとめ、本部へ急いだ。彼の心は急いでいた。あのババアどもは絶対に敵国のスパイだ。間違いない。 あの不自然な会話。間違いなんてあることはない。そして国は大戦が終わって3ヶ月目の今、滅亡の危機に瀕しているのだ。

 ボイラー大尉は体に不必要に力を入れていることに気がついて、ふっと力を抜いた。力を抜くと、なんだか腹の底がムズムズしてくる。 早く、早くとせかしている。それに耐えるためにやはり体に力を入れる。ボイラー大尉は自分の単純さを少しおかしくも思った。こんな単純な 自分が生き残り、賢くて勇気のある同胞が倒れたというのは、たちの悪い悪夢だと思う。もう二度と、そんな悪夢は見たくない。

 時速六十キロメートル。法定速度を守って走行する任意輸送車に苛立ちながら、ボイラー大尉は本部を待った。そして、我が目を疑った。 窓の外に人影が見えたのだ。全身に戦慄が、再び、走った。あのクソババアだ。右にも左にもいる。挟まれている。

 バレてたんだ。時速六十キロメートルの車に平行して走っている。二人のクソババアどもが自分を追ってきたんだ。ボイラー大尉は目を見開いて息を絞り出した。 心臓の音がうるさいくらいに鳴っている。腹の底に押し込んだはずの悲しみが、いつのまにか俺を押しつぶしそうなほどに膨張している。 戦慄が体中を駆け巡って、再び、体から抜け出ていく瞬間、彼は聞いた。

 「チゲね、いきますよ?アラザンさん」

 「ええ、ええ」

 やはり自分の勘に狂いはなかった。こいつらは、敵国のスパイだったんだ……。

 その日、ある一台の任意輸送車がメトロノーム街道を走行中にカーブを曲がりきれず、崖下へ転落した。運転手のビーフ=ストロガノフと 乗客のボイラー=タービン大尉の二名が全身を強く打って死亡した。

(了)

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