- Monokaki -


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 俺は一人で、もうすぐ明けるはずの町を歩いていた。

 猫は尻尾を立てながら俺の横を通り過ぎ、カラスは何事かわめきながら俺の上を飛んで行った。

 土曜日はバイトがあって、掃除や何やらで二十三時頃までかかる。その後駅で中学時代の友人にバッタリ会ったもんだから近くのファミレスで しばらく話し込んでしまい、懐かしい気持ちを手土産に店を出たのは、確か朝の四時だった。 この時期のこの時間はまだまだ暗いが、それでも五時を回る頃にはだんだん明るくなってくる。鳥は囀るし、新聞配達のバイクは 忙しくエンジンをうならせる。そんな音がし始めたら、もうあっという間に空が白くなっていく。

 駅から家までは歩いて十分かかる。今日は自転車ではないから、のんびり歩くことにした。この道はずっと昔からよく歩いた道だが、 歩けば歩くほど発見が多い。今通り過ぎた米山という家の人が実は著名なバイオリニストだったり、道の向かいにある洋菓子店の店長が 閉店後にジョギングをしていたり。付き合いのある家は全然無いのだが、昔から歩いてるせいか、なんだかよく知っているような気になりがちで、 そういう新しい発見をするたびに、俺は地元のことを知らないんだな、と思う。

 ゆっくり歩いているつもりでも道程は半分に差し掛かっていた。ふと気が付くと、前から妙なおじさんが歩いてきている。 妙な、っていうのは失礼だけど、こんな時間に歩いているだけで十分妙だ。危ない人かな、と思ってちょっと身構えたが、 何事もなくすれ違った。どうも酔っ払っているようだった。朝帰り? 大丈夫かな、きっと怒られるんじゃないか、なんて余計な心配を してみる。空はそろそろ青みを帯び始めていた。ああ、明け方の空っていうのはこんなに青いんだな。深くて、濃密に。これから一日を 始めるのに必要なエネルギーを蓄えてきたみたいだ。と、思った矢先に車が脇を通り過ぎる。あれ、ずいぶん場違いな車が走ってるな、 こんな時間に。赤いスポーツカー。こんな寂れた町を走らされて、車のほうは何を思っているんだろう。なんて考えると面白い。 しばらくして開店準備中のうどん屋が見えた。日曜日だというのに、窓から光が漏れ、主人が中で今日の客のために働き始めている。俺はこれから 一日を終えるというのに。よく考えると、一人で流れに逆らっているようで自分が何か馬鹿なことをしているようにも思えた。 見慣れた道をずんずん歩く。電柱と何度もすれ違う。しかし、こんな早朝だというのに、色々と出会えるものだ。次は何かな、と思っていると、 老婆に挨拶された。ああ、うちのばあちゃんと付き合いのあった人だ、名前は覚えていないけど。俺は、おはようございます、と返し、 ちょっと気分が良くなった。まだこんなに暗いのに、活動している人はいるんだ。それはある意味で未知の世界であり、またそういう人たちにとって 俺の世界は未知であるはずだった。

 もうじき家だという橋のところで、女の人に会った。たぶんこれが今朝最後の出会いじゃないか、と思った。 髪はやや長めで顔はよく見えなかったが、たぶん美人。服装も、なんとも言えない感じだった。総じて滑らか、なのかな? 触れてはいないけど、この暗い中、そんな感覚だけはっきりあった。さっき、おばあさんに挨拶された時の気分を覚えていたから、 俺はなんでもないように挨拶した。おはようございます、て。でも返事は無かった。あれ、とちょっと落ち込んで通り過ぎた後、 後ろからおはようございます、と聞こえた。ああ、良かった、やっぱり挨拶って気分良い、と思って振り返って会釈した。 そのとき顔がちょっと見えたたんだけど、やっぱり美人だった。そこは俺の家の近くだったのに、たぶんもう会うことは無いだろう、となぜか思った。 俺は向き直り、また歩き始めた。

 歩き始めたはずだったんだ。だけど、俺はびっくりしてしまった。あれ、ここさっき通ったところだ。さっき通ったところに戻っている。 変だな。ファミレスで何杯か酒を飲んだけど、そこまで酔っていたとは思えない。俺はしばらく立ち止まっていたが、また歩き始めた。 とにかく家に帰ろう。変だけど、なんか面白い体験をしたから今度誰かに話してやろう、と思っていた。思っていたんだけど、やっぱり 変だった。それは、さっきの酔っ払いおじさんがまた俺の前から歩いてきたからだった。そして何事も無かったかのように俺のすぐ横を 通って行く。あのおじさんも酔っ払いすぎて家に帰れないのだろうか、と、とりあえず考えて気を紛らした。だけどその後、 こっちに向かって走ってくるスポーツカーを見て俺は寒気を覚えた。やはり問題なくそれは通り過ぎる。そしてうどん屋はせっせと働いている。 これは、まさかタイムスリップというヤツだろうか。そんなお話みたいなことが本当に起こったのだろうか。でも、例えればまさに「巻戻し」で、 見た感じがこれっぽっちもさっきと違わない。俺は歩く。老婆が現れ、俺に挨拶をしたので俺は返した。しばらく歩けば家の近くの橋だが、 俺はいやな予感がした。あの美人がいる。俺は挨拶をした。先ほどと全く同じである。通り過ぎた後、背後から返事があり、俺は会釈し、 そして前を向いてまた歩き始めた。

 歩き始めたはずだったんだ。何回もね。それから俺はそんな調子で何度も何度も歩いた。全く疲れはしなかった。 どうしても、女のところまで行くと駅の近くまで戻ってしまっている。家に帰れない。俺はひたすら歩いた。夜明けの道をひたすら、 ひたすら歩いた。ひたすらひたすら。最初は繰り返しの数を数えていたけど、途中でうんざりしてきてやめた。なんだか、 絶対に家にはたどりつかない気がしたんだ。俺はここでひたすら歩き続けなくてはいけないような、そんな気がした。 老婆は毎回挨拶するし、俺も毎回それに答える。あの女を見たら、俺は必ず挨拶するし、女はちょっと遅れて必ず返事をする。 俺はそれをひたすら繰り返した。記憶だけはどんどん溜まっていった。夜は明けなかった。空はひたすら深い青だった。

 もう何回目か分からない。でも妙な事に気が付いた。これに気が付くまでには相当かかった。始まりの地点がずれてきている。 女に会った後、また戻されるわけだけど、戻される場所が徐々に前倒しになってきている。ループの周期がだんだん短くなっていっているという ことだ。巻戻しの時間が短くなったと言ってもいい。しかしループするポイントは変わらず女との挨拶の後。俺はもしかしたら この状態から脱出する鍵が、ここに隠されているかもしれないと思って必死に考えた。必死に考えながら、老婆と女とは挨拶していた。

 もう何回目か分からない。全く分からない。これくらいの時間を実際に過ごしたら、人間は一生を終えてしまうんじゃないだろうか、 とすら思うほど歩いた。すでに酔っ払いのおじさんやスポーツカー、うどん屋とは出会わなくなっていた。それほどループの周期は短くなってきていた。 俺はもうすっかり諦めていた。歩いて、歩いて、挨拶して。夜は全く明けない、エネルギーをたっぷり蓄えた深い青。なんだか変な感じがしてきた。 同じ風景を見すぎて、逆に新鮮に見えてきた。俺はとにかく暇で、いろいろ物語を作ったり、計算をしたり、膨大な暇潰しをした。 もちろん歩くのはやめなかった。挨拶も。

 老婆にも会わなくなったころ、このまま行ったら俺はどうなるんだろう、という疑問にふとぶち当たった。 今の今まで全然思いつきもしなかった疑問だった。もうループの周期はひどく短くなっている。このままどんどん短くなったら、 このループは終了するのではないだろうか。そのとき俺は? 一体俺はどうなる? このループから解放されるのは嬉しいが、 それを考えると、不思議なことに恐ろしくなった。

 もはやループの開始地点は、女に挨拶するところからになってしまった。ああ、この女は何者なんだろう。 もうすっかり見飽きた女にはあらゆる思案を向けてきた。この女が現象の発生源なのではないだろうか、とも考えたが なんだか今は違うような気がした。確かにこの女は美人で妖しく、得体の知れない感じではあったが、俺はこの女を見すぎた。 だから今の俺には、この女はとにかく陳腐な一ピースにしか見えなかった。女に挨拶しながら、ループは続いた。いつまでもいつまでも。

 俺は女に会釈した。何度も何度も、何度も何度も会釈した。そして振り返って、また会釈した。振り返って歩き始めようと思って、 また会釈した。また、また。何度も。

 ついに俺の動きは微々たるものになった。

 心臓が止まるかというほどの衝撃の後に、俺は自分の家の前に立っているのに気がついた。「その瞬間」に俺は何を見たか、何を思ったかは ほとんど覚えていない。うっすらと、何かちらちら光る多角形の塊のようなものを見た気もするが、それは嘘だと後で自分で気がついた。 暗いそよ風の吹く廊下、ムカデのような巨大なカタツムリ、鉛筆とちびの消しゴム。全く同じ体験を、厚く厚く塗り重ねていったつもりだったが、 あとに残った記憶はひょろっとした麺一本のようで、何があったのかすら説明できない。一生よりもずっと長い時間、明けない夜を歩いた。 それだけだった。

(了)

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